2020年1月17日金曜日

丸谷才一の「新しい種類の自伝」

丸谷才一『挨拶はたいへんだ』の巻末対談(文庫判解説)で、井上ひさし氏がいふには、
「挨拶のなかのお身内の葬式や結婚披露宴の挨拶で、丸谷さんの私的な歴史が次々に出てくる。…… 結局これは、新しい種類の自伝という感じがあります」といふ。そこで、井上氏のいふ「新しい種類の自伝」を整理してみよう。

 丸谷氏は、1925年、「丸谷熊次郎・千の次男として生れた」(「ゴシップ的年譜」*0)。父は産婦人科の開業医。丸谷氏が医者にならないと決めたことについて、「地方の医者の息子は医者になるのが当り前みたいに見られてゐます。その中でこのことを決心するのは、ちょっと大変でした。」(「幼いころの4つの願ひ」*2)といふ。
恐らく長男は夭逝(昔はよくあった)したため、実質的には彼が「長男」だったので、「決心する」のは「たいへんだった」と想像する。母にとって腹を痛めた唯一の子であるといふのもあるかもそれない。
「わたしは腹ちがひの姉二人にかはいがられて育った」(「賢く優しかった姉」*3)といふ姉二人は、13歳と10歳違ひ。年の離れた弟の丸谷氏は、父が44歳のときの子で、父64歳のとき息子はまだ20歳なので、直接の継承は大変になるであらう。
 丸谷医院を継承したのは、長姉の夫であり養子となった八郎氏で、「兄」と呼ばれる。兄は戦争中、軍医として5年間従軍し、帰郷したとき長女は10歳(「身内の書いた本の読後感」*2)。1945~46年とすれば、結婚はその11年以上前、1935年以前になり、1935年は丸谷氏10歳で姉23歳。10歳で「決心」を迫られたわけでもなからうが、中学生のころ兄の蔵書の『ドイッチェ・イデオロギー』などを興奮しながら読んだ(「辛い思ひ出を語らなかった男」*3)といふから、兄は結婚当初から同居してゐたのだらう。10歳の子が「医者にはならない」と言ったとしても、それをそのまま大人が受け取ることはないので、兄は独立の可能性もあったであらう。
ちなみに私の町でも、離れた場所に診療科目が同じで同じ苗字の「○○医院」を何組か目にする。町医者の後継者問題は、地域社会にとっても重要な問題なので、安全策がとられることはよくあることで、戦後の人口増の時代には、そのまま2軒の医院になっても不都合はなかったらう。丸谷氏が進学先に医大を選ばなかったことによって、このことは最終的に確定したと思はれる。
 「家には、住み込みの産婆さんに看護婦さんとお手伝いさんや通いの看護婦さんたちもいて賑やかでした」(「丸谷才一叔父の思い出」*4)と姪がいふから、かうした家を切り盛りするのは、母や姉の力によることが大きいのだらう。姉が残るのが一番うまくゆく。父の再婚といふのも、女性の力が必要だったためもあらう。
 兄は、長女が中学2年の1年間は、大阪の病院に勤め親子で大阪住ひだったが、翌年鶴岡に戻った。戻ったのは1949~50年ごろか。丸谷氏は東京で大学生暮らしである。姪の彼女は、大阪で見た歌舞伎に感動し、鶴岡に戻って丸谷氏の本棚から歌舞伎の脚本を何冊か見つけて夢中になって読んだといふ。彼女の回想の文章(*4)の、屈託のない明るさや叔父自慢は、いかにも女系家族特有のものである。
 父とは44歳違ふので場合によっては祖父のように見られようし、姉は13歳も上の大人、姪は10歳ほどの差なので妹のようなもの。1938年頃の家族構成を見てみる。
 父 57歳 院長で多忙
 母 44歳
 兄 養子 29前後?
 姉 26歳
 次姉 23歳(「銀町の姉」*1)
 才一 13歳
 姪   2~3歳?
 産婆さん 住込
 お手伝ひさん 住込
 看護婦さん 住込
まさに女系家族である。折口信夫の家族構成と比較してみたいところである。
兄のように慕った従兄弟の山本甚作は、23歳で東京美術学校在籍中。山本氏との関係は「兄のような従兄弟」(*2)で語られる通りだらうが、兄八郎氏との関係は、もっと深読みが必要だらう。

 参考資料
*0 群像日本の作家丸谷才一(小学館)
*1 挨拶はむづかしい(朝日文庫)
*2 挨拶はたいへんだ(朝日文庫)
*3 あいさつは一仕事(朝日文庫)
*4 文藝別冊丸谷才一(河出書房)