1979年、工作舎刊、『ハレとケの超民俗学』
それまで民俗学入門用に読んだものは、概論風のものはピンと来ず、柳田国男から選んだものは、ゴシップ風だったり、のんびりしすぎだったり、また折口信夫は数行読んでは難解さに溜め息をつくばかりだった。
この『ハレとケの超民俗学』は、工作舎の編集者の松岡正剛と高橋秀元の対談集だが、内容にリアリティがあり、民俗学理解のコツのようなものを、この本からもつかんだように思う(他には大野晋の日本語成立論など、民俗学の勉強になる)。以後はすらすら読める本が多くなった。
2017年12月10日日曜日
2017年12月9日土曜日
ヘーゲルの『小論理学』
岩波文庫版のヘーゲルの『小論理学』(松村一人訳)は、1978年刊行。これはAmazonから取りこんだデータなので蔵書を確認すると、やはり1978年で、9月18日第29版改版発行とある。改版とはたぶん旧漢字から新字に改めたことをいうのだろう。新刊で読んだ。
内容は、次のような感じだったか(間違っているかもしれないが)
有とは、ただ有るのであり、何かが有るのでは無いので、無のことである。無とは無いことだが、無いことすら無いのだから、有と同じ? というより有と無とは統一されたものであり、もはや別の物、成ということであって、思想のことである・・・
すぐ後に、河出書房版「世界の大思想」のうちの『エンチュクロペディ』を入手し、この論理学の次の『自然哲学』『精神哲学』を読もうと思ったが、『自然哲学』は自然や宇宙の現象を哲学用語で叙述するという実に変った内容だった。途中まで読んだ。
哲学書は、著書や著者やその人生などを評価不評価するために読むのではなく、自身の思考の鍛錬のために読むということで良い。
内容は、次のような感じだったか(間違っているかもしれないが)
有とは、ただ有るのであり、何かが有るのでは無いので、無のことである。無とは無いことだが、無いことすら無いのだから、有と同じ? というより有と無とは統一されたものであり、もはや別の物、成ということであって、思想のことである・・・
すぐ後に、河出書房版「世界の大思想」のうちの『エンチュクロペディ』を入手し、この論理学の次の『自然哲学』『精神哲学』を読もうと思ったが、『自然哲学』は自然や宇宙の現象を哲学用語で叙述するという実に変った内容だった。途中まで読んだ。
哲学書は、著書や著者やその人生などを評価不評価するために読むのではなく、自身の思考の鍛錬のために読むということで良い。
2017年12月8日金曜日
『歴史と旅 特集・邪馬台国はここだ』
秋田書店の雑誌『歴史と旅 特集・邪馬台国はここだ』は、1976年6月号だが、
1977年初頭の寒い日に、甲州街道沿の模型屋の隣の古書店で見つけて、読んだ。
井上光貞『日本の歴史1』(中央公論社)、東京新聞連載時の『清張通史』などは読んでいたが、その他の有名な先生がたの説が、カタログのように載っていた。
読み終って高校時代の地図帳を取り出し、武蔵国周辺を目で追いながら、邪馬台国当時の国名と似ている地名は見つからないものかと、探してみた。カナサナ国は神社名としてあった。しかし10以上を見つけ出すのは、容易でないことがわかった。
書庫に見つからずスキャナ画像は撮れなかった。
1977年初頭の寒い日に、甲州街道沿の模型屋の隣の古書店で見つけて、読んだ。
井上光貞『日本の歴史1』(中央公論社)、東京新聞連載時の『清張通史』などは読んでいたが、その他の有名な先生がたの説が、カタログのように載っていた。
読み終って高校時代の地図帳を取り出し、武蔵国周辺を目で追いながら、邪馬台国当時の国名と似ている地名は見つからないものかと、探してみた。カナサナ国は神社名としてあった。しかし10以上を見つけ出すのは、容易でないことがわかった。
書庫に見つからずスキャナ画像は撮れなかった。
2017年12月7日木曜日
『夢野久作傑作選』
1976年に、文庫判の『夢野久作傑作選』(現代教養文庫)5冊のうち最初のものを読んでから、5冊を順次読了することになった。探偵小説というものは、そういう読者を熱中させるものがあるのだろう。
今は次の2つについて以外は、内容を思い出せない。
1つは、長編『ドグラマグラ』に出てくる、新興宗教のような怪しい祭文。チャカポコ拍子をとりながら歌うような長文だったが、あの部分は再読してみたい。
もう1つは虚言癖の娘が、自らの経歴そのほか全てを虚言で装い、そのように世間にとりつくろい、恋人にも接するのだが、そうしているうちに虚がばれそうになったのか、虚言そのものに疲れ果てたのか、忽然と姿を消す話。今の世の人間は誰しも自分を装うことばかりに気をとられてはいないかというテーマにもなってくる。
その後の興味や関心の進展により、この2点だけは何度も思い出す機会があったので、自分の永いテーマとして記憶に残っているのだろう。
今は次の2つについて以外は、内容を思い出せない。
1つは、長編『ドグラマグラ』に出てくる、新興宗教のような怪しい祭文。チャカポコ拍子をとりながら歌うような長文だったが、あの部分は再読してみたい。
もう1つは虚言癖の娘が、自らの経歴そのほか全てを虚言で装い、そのように世間にとりつくろい、恋人にも接するのだが、そうしているうちに虚がばれそうになったのか、虚言そのものに疲れ果てたのか、忽然と姿を消す話。今の世の人間は誰しも自分を装うことばかりに気をとられてはいないかというテーマにもなってくる。
その後の興味や関心の進展により、この2点だけは何度も思い出す機会があったので、自分の永いテーマとして記憶に残っているのだろう。
2017年12月6日水曜日
文庫判の漫画の最初『化け烏』
文庫判(A5判)の漫画の最初は、1975年の『化け烏』(水木しげる著、東考社)である。このことは、版元も自負していたので間違いない。75年初頭か前年に東京都国分寺市の東考社に、まとめて予約に行ったら、1冊何か貰った。新書判の『噂の武士』だったかもしれない。東考社は引越先が決まっていたので、奥付は埼玉県の新住所になっている。
文庫版漫画は、すぐに二見書房が続き、翌年には大手の講談社や小学館そのほかが参入。
当時は、作品はすでに定評のあるものを集成したものが主体で、大島弓子の少女漫画なども、老若男女に広く読まれることになる。
文庫版漫画は、すぐに二見書房が続き、翌年には大手の講談社や小学館そのほかが参入。
当時は、作品はすでに定評のあるものを集成したものが主体で、大島弓子の少女漫画なども、老若男女に広く読まれることになる。
2017年12月5日火曜日
1974年の稲垣足穂の本
1974年は、蔵書リストをみると、潮出版の「多留保集」シリーズなど、稲垣足穂の本が多い。
発売後まもなくに読んだのは『男性における道徳』(中央公論社)というエッセイ集。
「男性には書物、女性には衣服」とか、美食の戒めとか、後世の「男性脳と女性脳」のような話が、アイロニーをこめて語られてあったと思う。
画像は「多留保集」のもの。足穂は3年後の1977年の年末に没した。
1974年の重要な本といえば、他には、大野晋の『岩波古語辞典』がある。高校卒業後にもう1冊古語辞典を買った人も多かったらしい。
発売後まもなくに読んだのは『男性における道徳』(中央公論社)というエッセイ集。
「男性には書物、女性には衣服」とか、美食の戒めとか、後世の「男性脳と女性脳」のような話が、アイロニーをこめて語られてあったと思う。
画像は「多留保集」のもの。足穂は3年後の1977年の年末に没した。
1974年の重要な本といえば、他には、大野晋の『岩波古語辞典』がある。高校卒業後にもう1冊古語辞典を買った人も多かったらしい。
2017年12月4日月曜日
小沢正の童話『目をさませトラゴロウ』
竹やぶに住んで、いつもおなかをすかしているトラ、名前はトラゴロウと、人間や動物たちとの物語。講談社文庫から出たこともあるのは、大人のファンが多いということだろう。
トラゴロウは、あまり働かずに竹やぶでのんびりしていることが多いのだが、おこって人間をたべたりもする。
トラゴロウが2匹になる話や、途中で昼寝してしまった自分を置いたまま帰ってきてしまったとか、キバをなくしたトラはトラといえるだろうかとか、いわば「自己を二重化」する話が多く、大人も考えさせられるテーマが多いのである。哲学的にも読める。
1973年に理論社から「愛蔵版」が発行されたのだった。
トラゴロウは、あまり働かずに竹やぶでのんびりしていることが多いのだが、おこって人間をたべたりもする。
トラゴロウが2匹になる話や、途中で昼寝してしまった自分を置いたまま帰ってきてしまったとか、キバをなくしたトラはトラといえるだろうかとか、いわば「自己を二重化」する話が多く、大人も考えさせられるテーマが多いのである。哲学的にも読める。
1973年に理論社から「愛蔵版」が発行されたのだった。
2017年12月3日日曜日
石森章太郎『劇画 家畜人ヤプー』
沼正三原作、石森章太郎『劇画家畜人ヤプー』は、1971年の発行だが、その1~2年後ごろ、神田の古書店で大量に安売りしていたのを1冊買った記憶がある。調べたら版元の都市出版社は、1972年6月倒産。その直後だろう。
内容は、奇書といわれているが、日本人の人種コンプレックスを諷刺したものとして愉快に読んだ。西洋文化への盲従に対する皮肉の意味もある。吉行淳之介らも絶賛しているので、マゾヒズムとは女性礼賛表現の特殊な形でもあるのだろう。
小説よりも漫画を先に読んだ。この本のいう「劇画」とは、劇画初期の劇画ではなく、なんでもニューミュージックのような意味。
内容は、奇書といわれているが、日本人の人種コンプレックスを諷刺したものとして愉快に読んだ。西洋文化への盲従に対する皮肉の意味もある。吉行淳之介らも絶賛しているので、マゾヒズムとは女性礼賛表現の特殊な形でもあるのだろう。
小説よりも漫画を先に読んだ。この本のいう「劇画」とは、劇画初期の劇画ではなく、なんでもニューミュージックのような意味。
2017年12月2日土曜日
その年の記憶に残る1冊
今月は、1970年以後の、新刊まもない時期に読んだ本から、1年1冊のペースで、その年の記憶に残る1冊について書いてみる。
時代とからめて書くこともあるが、自分史的な回顧の面もある。ただし新刊本はめったに読まない。新刊で読んだものは少ないので1冊選ぶのは簡単。
時代とからめて書くこともあるが、自分史的な回顧の面もある。ただし新刊本はめったに読まない。新刊で読んだものは少ないので1冊選ぶのは簡単。
2017年12月1日金曜日
劇画とは何か 『現代漫画論集』
著者は『漫画主義』という雑誌の同人で、石子順造ほか3人。40数年前のわが青春の一冊でもある。
当時の記憶だけをたよりにこのブログを書いているが、最も印象に残る論文は、権藤晋の劇画論だった。小説などもそうだが、作品論といえば、作家の生い立ちやら、経験から形成される思想などを主体に論じられることが多いが、この論は、読者や読者層の生活やら世界観を主体にして、大衆文化論にとどまらない作品論に踏み込むものだった。その読者層とは、昭和30年代の貸本屋の主たる客だった「非学生ハイティーン」ともいうべき若者たち。辰巳ヨシヒロやつげ義春らが「劇画」を代表する作家だ。
しかし貸本屋は、農村部にはなかったので、想像するしかなかった。
当時の記憶だけをたよりにこのブログを書いているが、最も印象に残る論文は、権藤晋の劇画論だった。小説などもそうだが、作品論といえば、作家の生い立ちやら、経験から形成される思想などを主体に論じられることが多いが、この論は、読者や読者層の生活やら世界観を主体にして、大衆文化論にとどまらない作品論に踏み込むものだった。その読者層とは、昭和30年代の貸本屋の主たる客だった「非学生ハイティーン」ともいうべき若者たち。辰巳ヨシヒロやつげ義春らが「劇画」を代表する作家だ。
しかし貸本屋は、農村部にはなかったので、想像するしかなかった。
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