『吉行エイスケとその時代―モダン都市の光と影』は、東京四季出版 1997年。小説と評論。写真資料。NHKドラマ「あぐり」の放映の年。
吉行エイスケの小説については、さっぱりわからなかったが、自分の若いころの習作やら、友人たちの書いたものの記憶をたどれば、似たような部分もあったような気がする。
当時の感覚で見たもの、聞いたもの、そういった単語を、関連づけるわけでもなく散りばめて書き綴るというものだったが、吉行のものはもっと上等なものではある。
また字面を眺めながら、読んでみたいと思った。
2017年12月28日木曜日
2017年12月27日水曜日
『歴史と旅』 特集:江戸常識の嘘を斬る
1996年の暮れの発売、12月に読んだ。
秋田書店の『歴史と旅』1997年1月号(特集:江戸常識の嘘を斬る)を読んで、もっと江戸時代の村のことを学ばねばならないと思ったことがあった。この特集は、それ以前にときどきあちこちで見聞きすることのあったさまざまのことがらを総まとめにしてくれたもので、よくよく熟読したものだったが、それ以前の知識として最も勉強になっていたのは、NHKテレビのコメディー『お江戸でござる』における杉浦日向子の解説(「おもしろ江戸ばなし」)だった。お江戸でござるの農村版はできないものかと思っていた。『お江戸でござる』の放送開始は1995年3月30日。
以上は次のURLからのもの。続きも次のURL。
http://edo.nire.main.jp/?eid=1
佐藤常雄氏の論文が良かったわけである。
秋田書店の『歴史と旅』1997年1月号(特集:江戸常識の嘘を斬る)を読んで、もっと江戸時代の村のことを学ばねばならないと思ったことがあった。この特集は、それ以前にときどきあちこちで見聞きすることのあったさまざまのことがらを総まとめにしてくれたもので、よくよく熟読したものだったが、それ以前の知識として最も勉強になっていたのは、NHKテレビのコメディー『お江戸でござる』における杉浦日向子の解説(「おもしろ江戸ばなし」)だった。お江戸でござるの農村版はできないものかと思っていた。『お江戸でござる』の放送開始は1995年3月30日。
以上は次のURLからのもの。続きも次のURL。
http://edo.nire.main.jp/?eid=1
佐藤常雄氏の論文が良かったわけである。
2017年12月26日火曜日
『貧農史観を見直す』佐藤常雄
佐藤常雄『貧農史観を見直す』(講談社現代新書 1995)
佐藤氏は専門は農業史という。江戸時代のまっとうな研究というのは「近世史の専門家」以外の人のものばかりだとは、よく言われることである。
この本は私も非常に感銘を受けたのだが、同様の人は多いとみえ、個人のブログなどでも良く取りあげられている。
1995年には、NHKテレビで「お江戸でござる」という番組が始まった。近代人が忘れてしまった江戸時代の良さが、杉浦日向子によって語られるコーナーのある番組だったが、そこでは江戸の都市民についての話ばかりだった。そういった新しい目を、農村へも広げていったのが佐藤氏の本だと、多くの読者に受けとめられた。
年貢は土地所有権を保証するもの。農村は自治で運営され、武家は立ち入ることができず、農民がピケを張れば測量すらままならない。村の入口まで用水を引くのは武家の義務。……決して弱くはなく、前むきに生きる農民の姿が描かれていた。
江戸時代暗黒史観の元祖は明治政府だが、当時の左派勢力の歴史観も「奇妙な一致」を見せたという指摘があった。それはなぜなのかは重要なテーマである。
序文に書かれた蜂須賀家の先祖調べや、伊達藩での親権認定の話は、シリーズの監修の大石大三郎氏の執筆であり、大石著『江戸時代』(中公新書)の導入部と重複する部分がある。
この本を読んだのは1997年初め。
佐藤氏は専門は農業史という。江戸時代のまっとうな研究というのは「近世史の専門家」以外の人のものばかりだとは、よく言われることである。
この本は私も非常に感銘を受けたのだが、同様の人は多いとみえ、個人のブログなどでも良く取りあげられている。
1995年には、NHKテレビで「お江戸でござる」という番組が始まった。近代人が忘れてしまった江戸時代の良さが、杉浦日向子によって語られるコーナーのある番組だったが、そこでは江戸の都市民についての話ばかりだった。そういった新しい目を、農村へも広げていったのが佐藤氏の本だと、多くの読者に受けとめられた。
年貢は土地所有権を保証するもの。農村は自治で運営され、武家は立ち入ることができず、農民がピケを張れば測量すらままならない。村の入口まで用水を引くのは武家の義務。……決して弱くはなく、前むきに生きる農民の姿が描かれていた。
江戸時代暗黒史観の元祖は明治政府だが、当時の左派勢力の歴史観も「奇妙な一致」を見せたという指摘があった。それはなぜなのかは重要なテーマである。
序文に書かれた蜂須賀家の先祖調べや、伊達藩での親権認定の話は、シリーズの監修の大石大三郎氏の執筆であり、大石著『江戸時代』(中公新書)の導入部と重複する部分がある。
この本を読んだのは1997年初め。
2017年12月25日月曜日
『別冊太陽 宝塚 タカラジェンヌ一〇〇』
1994年の「宝塚歌劇団八十周年」の『別冊太陽 宝塚 タカラジェンヌ一〇〇』(平凡社)
百周年(2014)の年に古本で購入。スター100人の写真集と解説。百周年の年にも出版物はあったが、1990年代の別冊太陽のような多数のカラー写真による綜合的な紹介本は貴重といえる。90年代は『別冊太陽』『別冊歴史読本』などの全盛時代。
当時の1990年代前半の宝塚の代表的な演目は、花組「ブラックジャック」、月組「PUCK」」、雪組「ブルボンの封印」、星組「うたかたの恋」。
百周年(2014)の年に古本で購入。スター100人の写真集と解説。百周年の年にも出版物はあったが、1990年代の別冊太陽のような多数のカラー写真による綜合的な紹介本は貴重といえる。90年代は『別冊太陽』『別冊歴史読本』などの全盛時代。
当時の1990年代前半の宝塚の代表的な演目は、花組「ブラックジャック」、月組「PUCK」」、雪組「ブルボンの封印」、星組「うたかたの恋」。
2017年12月24日日曜日
『伊勢神宮と日本の神々』(朝日新聞社)
2017年12月23日土曜日
『日本人とは何か』山本七平
山本七平の『日本人とは何か』は、1992年のPHP文庫。
これより数年前、この本の単行本が出たころだと思うが、山本七平が夜11時ごろのテレビ番組に出て、この本に関連して次のようにコメントしていた。
戦国時代を例に、日本人は放っておくと夫婦単位でどんどんばらばらになる。夫婦以外の関係は重要でないかのようで、戦国時代に夫婦は連座して同罪とされたり、戦後の核家族化もどんどん進んでしまうわけだ。なんらかの規制があったほうが良いとかいう話。
ほかにも気になるコメントがあったような気がするので、文庫化されてすぐに購入。
中世の僧兵たちは、頭から覆面をかぶって、衆議に参加して議論する。顔を隠すのは、地位や身分に関係なく、正しい論は正しいのだと皆が認めやすくするためだという。
秀吉のキリシタン追放は、宣教師らが日本人を奴隷として海外に売買していたからという。日本には、違法なものを除けば、制度としての奴隷はなかったという指摘もあったと思う。
そんなことが書かれてあった。
これより数年前、この本の単行本が出たころだと思うが、山本七平が夜11時ごろのテレビ番組に出て、この本に関連して次のようにコメントしていた。
戦国時代を例に、日本人は放っておくと夫婦単位でどんどんばらばらになる。夫婦以外の関係は重要でないかのようで、戦国時代に夫婦は連座して同罪とされたり、戦後の核家族化もどんどん進んでしまうわけだ。なんらかの規制があったほうが良いとかいう話。
ほかにも気になるコメントがあったような気がするので、文庫化されてすぐに購入。
中世の僧兵たちは、頭から覆面をかぶって、衆議に参加して議論する。顔を隠すのは、地位や身分に関係なく、正しい論は正しいのだと皆が認めやすくするためだという。
秀吉のキリシタン追放は、宣教師らが日本人を奴隷として海外に売買していたからという。日本には、違法なものを除けば、制度としての奴隷はなかったという指摘もあったと思う。
そんなことが書かれてあった。
2017年12月22日金曜日
『日本の歴史をよみなおす』網野善彦
網野善彦『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房 1991)
この本に書かれてあったことで、すぐに思い出すのは、「市」の成立の話。物が商品として取引されるには、物と所有者との関係が切り離されなければならず、それを可能としたのが市である。市は村外れなどの境界と呼ぶにふさわしい場所で成立し、異界からのある力がはたらいて、物と人は無縁のものとなる。市をつかさどる女は巫女でもあったとか、同様の場所では、歌垣も行なわれ、男女の関係もフリーとなるのだとか。
歴史というのは、戦さで誰が勝ったとか、巨大建造物は誰が作ったとか、そんなことがどれだけ重要なのだろうかと思えてくる。
戦後の日本では、公共の土木工事などが盛んで、付随して多くの遺跡などが発掘された。
発掘というと古墳時代以前のものが注目されやすいが、中世のものも多く、新発見の史料により、これまでの歴史記述の見直しがされることも増えた。1986年から刊行された週刊朝日百科日本の歴史などもその一つなのだろう。1990年代は「読みなおし」の時代でもあった。
この本に書かれてあったことで、すぐに思い出すのは、「市」の成立の話。物が商品として取引されるには、物と所有者との関係が切り離されなければならず、それを可能としたのが市である。市は村外れなどの境界と呼ぶにふさわしい場所で成立し、異界からのある力がはたらいて、物と人は無縁のものとなる。市をつかさどる女は巫女でもあったとか、同様の場所では、歌垣も行なわれ、男女の関係もフリーとなるのだとか。
歴史というのは、戦さで誰が勝ったとか、巨大建造物は誰が作ったとか、そんなことがどれだけ重要なのだろうかと思えてくる。
戦後の日本では、公共の土木工事などが盛んで、付随して多くの遺跡などが発掘された。
発掘というと古墳時代以前のものが注目されやすいが、中世のものも多く、新発見の史料により、これまでの歴史記述の見直しがされることも増えた。1986年から刊行された週刊朝日百科日本の歴史などもその一つなのだろう。1990年代は「読みなおし」の時代でもあった。
2017年12月21日木曜日
VZエディターとマニュアル本(ビレッジ・センター)
日本のパソコンPC-9801用のテキストエディタ「VZエディタ」(ビレッジ・センター)は、1989年5月の発売で、1990年初頭に購入してのち、マニュアルを何度も読んだものだった。パソコン関連の本では、最も熟読した本である。
VZエディタはマクロ機能が充実していたので、自作マクロも作った。
広辞苑のCD-ROMのデータを分割コピーしたものから、文字コードを変換してテキストファイル化するマクロ。マクロでの変換は長大な時間を要した。できたテキストファイルは30メガバイトという巨大さ。
その後パソコンのメモリが増え、広辞苑を1ファイルとしてエディタでオープンし、検索機能を使用して、広辞苑の先頭から末尾まで一気に検索できるようになり、現在もこのやりかたである。検索で見つけた項目を読みながら、隣りの項目にも目が行くのだが、これは紙の辞書と同じ使い方。
最近作ったマクロは、次のページの最後のほうにある。
http://nire.main.jp/rouman/dic/norito.htm
現在も、VZエディタをWindowsのMS-DOSモード(コマンドプロンプト)で使用している人は、少なくないそうだ。
VZエディタはマクロ機能が充実していたので、自作マクロも作った。
広辞苑のCD-ROMのデータを分割コピーしたものから、文字コードを変換してテキストファイル化するマクロ。マクロでの変換は長大な時間を要した。できたテキストファイルは30メガバイトという巨大さ。
その後パソコンのメモリが増え、広辞苑を1ファイルとしてエディタでオープンし、検索機能を使用して、広辞苑の先頭から末尾まで一気に検索できるようになり、現在もこのやりかたである。検索で見つけた項目を読みながら、隣りの項目にも目が行くのだが、これは紙の辞書と同じ使い方。
最近作ったマクロは、次のページの最後のほうにある。
http://nire.main.jp/rouman/dic/norito.htm
現在も、VZエディタをWindowsのMS-DOSモード(コマンドプロンプト)で使用している人は、少なくないそうだ。
2017年12月20日水曜日
柳田国男全集〈5〉 山島民譚集
1989年に、ちくま文庫版の『柳田國男全集』(筑摩書房)の刊行が開始された。
既に角川文庫などで柳田の主要な著作は目にしていたが、第5巻の「山島民譚集」は、初期の論考ということもあり、未整理だが名もない神々についての多岐に渡る内容は多くの示唆に富むものだった。
その3~4年前に、ある知人が「『定本 柳田國男集』が文庫化されれば良いのだが」と言うのだが、「折口信夫全集のように縮刷版で」と言うので、「あれは菊判だから縮小したら読めない。柳田のものは新字新仮名に組み直すのが良い」と答えた。知人は実物の柳田国男集をよく見てなかったのだろう。実際に文庫版が出たとき、その会話を思い出したものだった。『定本 柳田國男集』はまさに定本だったせいか「柳田國男」と本字で書く人が多かったが、一人だけの扱いは奇妙であり「国男」でも問題ないのではないか。
既に角川文庫などで柳田の主要な著作は目にしていたが、第5巻の「山島民譚集」は、初期の論考ということもあり、未整理だが名もない神々についての多岐に渡る内容は多くの示唆に富むものだった。
その3~4年前に、ある知人が「『定本 柳田國男集』が文庫化されれば良いのだが」と言うのだが、「折口信夫全集のように縮刷版で」と言うので、「あれは菊判だから縮小したら読めない。柳田のものは新字新仮名に組み直すのが良い」と答えた。知人は実物の柳田国男集をよく見てなかったのだろう。実際に文庫版が出たとき、その会話を思い出したものだった。『定本 柳田國男集』はまさに定本だったせいか「柳田國男」と本字で書く人が多かったが、一人だけの扱いは奇妙であり「国男」でも問題ないのではないか。
2017年12月19日火曜日
『安吾新日本地理』坂口安吾
1988年の河出文庫、坂口安吾の歴史エッセイ集で、「安吾新日本風土記」「安吾史譚」と三部作といわれる。1950年代のものの文庫化、古代史の先駆などという評価もある。
「飛鳥の幻」「飛騨・高山の抹殺」など、今は青空文庫でも読める。
「飛鳥の幻」は、いわゆる大化の改新で滅んだ蘇我氏を再評価する論。
「飛騨・高山の抹殺」は、飛騨の伝説の怪人両面スクナとヤマトタケルの話。飛騨の地名については、執筆当時の村名で書かれ、昭和30年頃の合併でほとんどなくなっている地名だったので、地図を見てもわからないものばかりだった。
ほかに「宝塚女子占領軍」も面白い。
『安吾新日本風土記』では、「富山の薬と越後の毒消し」も良かった。
「飛鳥の幻」「飛騨・高山の抹殺」など、今は青空文庫でも読める。
「飛鳥の幻」は、いわゆる大化の改新で滅んだ蘇我氏を再評価する論。
「飛騨・高山の抹殺」は、飛騨の伝説の怪人両面スクナとヤマトタケルの話。飛騨の地名については、執筆当時の村名で書かれ、昭和30年頃の合併でほとんどなくなっている地名だったので、地図を見てもわからないものばかりだった。
ほかに「宝塚女子占領軍」も面白い。
『安吾新日本風土記』では、「富山の薬と越後の毒消し」も良かった。
登録:
投稿 (Atom)